黒松内の歴史は山道から
くろまつないの歴史 History of Kuromatsunai
黒松内町の名前の由来は、アイヌ語のクル・マツ・ナイ(和人の女がいる沢)と伝えられている。これは、昔出稼ぎにきた漁夫を追ってきた女性たちを乗せた船が難破してしまい、そのまま黒松内の地に滞留したことから名づけられたとされる。
黒松内町の歴史は天保4年(1833年)までさかのぼる。松前藩の人であった花岡利右衛門という人物が、今の緑橋の黒松内口に花岡宿という宿場を建てた。その後、明治4年(1871年)に開拓使は、黒松内花岡宿脇本陣の設備と構内を官設宿場とする計画を立て有珠郡紋鼈村から13入植、伊達家家臣、横山勝四郎ら13戸が駅逓創設に伴って入植し開拓を始めた。そして、黒松内村の起源となるほかの地区である熱郛村は明治24年(1891年)歌棄の住人である横村儀兵衛外16人が歌棄共同農業組合を設立し道庁に土地の払い下げを請願し同27年(1894年)に許可をもらい開墾、湯別村中ノ川地 区も明治22年(1889年)ごろに滝沢千代吉を先達とした青壮年一団(新潟県)が第 1 次入植者として開墾された。黒松内村は当初は1か村として成立した訳ではなく、明治6年(1873年)に今の黒松内市街地、同31年(1898年)に字中里以東 の地方と二度にわたる所属替えを経て黒松内村として成立した。明治30年(1898年)ご ろから函樽鉄道株式会社(のち北海道鉄道株式会社)の函館―小樽間の主要駅として鉄道 の町として、昭和6年(1931年)には金鉱脈の発見により、鉱山を「大榮鉱山」と命名し鉱山の町として栄えた。昭和30年(1955年)に旧黒松内村、旧熱郛村、旧樽岸村の中ノ川地区との合併により「三和村」となり、同34年(1959年)には町制施行により5月には「黒松内町」と名をかえ、現在に至っている。
夢追いニシン街道 Pursuing a dream of the Herring Highway
幕命により、東蝦夷の長万部から西蝦夷地歌棄ニシン場所まで通じる路が、安政三年(一八五六年)に開鑿された。長万部から黒松内朱太川渡船場までを箱館の福次郎、千代田村の才太郎が、渡船場から歌棄までは、松前の桝屋定右衛門、栄五郎親子が受け持って竣工した。新道は「黒松内越え山道」と呼ばれ、北蝦夷地のニシン場所へつながる街道として通行人も増え、松浦武四郎、玉蟲左太夫、プラキストン、開拓使お雇い外国人のライマン、ケプロン等も通り、山道沿いの様子を日記や日誌に書き残している。又、開拓使へ出仕途中の榎本武楊は、作開観音寺で参詣し木札に記帳している。
様々な旅人が、様々な夢を抱いてこの山道を越え、北のニシン場へと向かった。東北からの出稼ぎ漁夫、魚場持ちとなって一旗あげようとやって来た者、又同じような野望を持った商人達。その中に、足取りも重く、持てるだけの家財道具を携えた家族連れの集団がいた。戊辰の戦に敗れて故郷を追われ、新天地の歌棄へ向かう会津藩士の移住団であった。 文:黒松内山道の会 北村英芳